神戸社会人大学創立7周年式典記念講演 『オニツカの経営理念の実践を通じて』   株式会社アシックス代表取締役会長 鬼塚喜八郎


1993年9月19日(日) 於:神戸星電バーズビル会場

中国からの留学生も、この文章を読んで、多くの人が、感銘を受けているそうです。
(バーズ文庫より転載)


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はじめに

 皆さん、こんにちは。日曜日にもかかわらず、家族との時間を割いて、こうして勉強のためにお越しいただいた皆さんの姿を拝見しまして、何かじんとくるものを感じました。誠にご苦労さまでございますが、しかしこのような楽しみをお持ちの皆様は大変ハッピーだなと感じるわけでございます。
 さて、この神戸社会人大学は最も小さい大学ではあるけれども、私は最も内容のある大学であると思います。おそらく噛みしめれば噛みしめるほど味の出てくる大学ではないかと思うのであります。本日は創立七周年という記念すべき日に当たり、私のような者に話をせよということで、ご招待をいただいたことを嬉しく存じます。果たして皆様方のご参考になるかどうかわかりませんが、まず皆さんの人生のどこかで、私の経営者としての体験談がご参考になれば大変幸いに思う次第であります。今日はこの会場のオーナーである星電杜の後藤会長がお越しになっていますが、早くからこうした場所をご提供になり、この後藤さんこそ、企業を通じて社会的貢献をなさっておられるということで、われわれ経営者仲間として大変尊敬している次第でございます。また、今回この大学の学長にご就仕をいただきました佐々木先生も、この方はむしろ科学者というよりも哲学者であると、日頃からご尊敬を申し上げている次第であります。それから、実際に運営にあたられている川西さん、これも名幹事長であります。実は不思議なことに私と同郷であります。ある県人会の席で、どうしてもこの大学で話をしろと、咋年から聞いておりましたが、なかなかスケジュールが合わず、ようやく本日皆さんの前に出させていただいたということです。また、この川西さんのこの大学にかける炎のような情熱を感じ、この大学は必ず成功すると思いました。何といってもその核となる人の情熱が必要です。まさに私は、この人をよく見習っていただいて、あらゆる会を運営される際にお手本にしていただきたい。

   
アシツクスの社名の由来
 では、これから私の経験談に移らせていただきます。
 実は「アシックス」という社名ございますが、この「アシックス」という社名を聞いて、「お前の会社はアメリカから来た会社か。」とよく言われます。「いや、滅相もないことですよ、きちっとした日本民族の会社ですよ。」といいますと、「それにしても変わった名前の会社だな。」と言われます。私の友人がある大学の教授をしておりますが、その人が言うのに、「鬼塚君、お前は大変いい名前をつけたな。」そこで、「先生、その語源を知っておられるのですか。」と聞きましたところ、「お前たちは、昭和五十二年に、スポーツシューズの専門メーカーであるオニツカ株式会社が中心になって服装メーカーでありました株式会社ジィティオ、そしてもう一つニツトの服装メーカーでありましたジェレンク株式会社、この三社があのオイルショックの直後、合併をして新しい会社を作ったわけだ。君たち三人のオーナーが集まって、足もとを見よと。足が六本あるではないか。アシ(足)がシックス(6)だからアシックスとつけたんだろう。」と。なかなかユニークな説明だと、私も感心したわけですが、また昔、毛利元就が三本の矢をもって兄弟三人を諭した故事にならって、六本の足で覚悟を固めたということもありますが、実は、この名前は足が六本という意味ではないのであります。
 私が、事業を創業いたしました時期は戦後であります。戦後まもない昭和二十四年で、神戸国際部市の中で都心の三宮の界隈は闇市のジャンジャン市場がありまして、進駐軍のMPが水陸両用車の上に機関銃を積んで、治安維持のためぐるぐるまわっていたというような時期であります。そういうなかで、何がおこったかといいますと、三宮のガード下や元町の駅や、ジャンジャン市場に集まってくる青少年達、それがどんどん非行化していく。私は日本は大変なことになる。国は負けてしまった、その上に将来をになって立つこの青少年達がこんなことになってきたら、日本の将来は一体どうなるだろう、そう強く思うようになりました。そこで私は、実は3年間、サラリーマンをやっていたのですが、このサラリーマン生活に終止符を打ちまして、この青少年を立派に育てる仕事をやってみたいと思いました。持つべきものは、友達です。私の兵隊の時の戦友が、県の教育委員会の保健体育課長、掘公平さんです。彼に、「おい、堀さん、おれはサラリーマン生活3年間は卒業だ。あそこの社長とは、人生観も違えば、企業経営の感覚も全く違う。そこで辞めたい。同じ一生だ。自分の納得する人生をつくりあげてみたいんだ。それには、あの青少年たちを立派に育てることだと気がついた。あの青少年達を立派に育てる方法はないだろうか。」と言いましたところ、彼は、「『健全なる身体に健全なる精神が宿らんことを。』お前はこの格言を知っているか。」と言いました。「この格言こそ、心身ともにバランスのとれた成長していく幸福な人間像というものを言い表している。それを実現するには、スポーツこそ心身ともに健全なる人間をつくりあげていくものである。だからおれは行政官としてスポーツの振興に一生懸命なんだ。残念なことに、スポーツをやらせる靴がない。どうや、お前が靴屋になって、スポーツシューズをつくって青少年に履かせて、スポーツを通じて人間形成をやってみてはどうか。」
 実はこういういきさつがあったのが、私の第二の人生の目的を果たすためスポーツシューズからスポーツ用品メーカーに入った大きな動機でございます。その動機の根底にありましたのが、この格言でございます。従いまして、この格言は、口ーマの二世紀のころ、ユベナリスという風刺作家が出てまいりまして、あの口ーマの衰退を憂えて、「もし、人間が幸せを神に祈るならば、健全なる身体に、健全なる精神が宿ることを祈るだろう」ということを詩に残し、この言葉が今でも格言として残っているわけなんですが、ラテン語の『AnimaSanainCorPoreSano。』原語は(Mens)となっていますが、(Anima)におきかえました。そこでこの頭文字をとつて「ASICS」とし、この格言を要約した表現でありまして、これが私が事業をおこした動機であり、創業の精神であり、このような社名にした訳であります。従って、企業理念が会社の名前になっている会社というのは、割合少ないのです。いろいろと個人の名前であったり、地名であったりするのですが、私はこの経営する企業の基本の理念を社名にしたというので非常に誇りに思っているのであります。現在世界各国に進出いたしておりますが、「アシックス」という語源は何かと聞かれた時に、このラテン語を言いますと、すぐにわかってくれます。
   
変革の時代の経営者のあり方
 今、日本に何がおこっているか。申し上げるまでもなく、バブル経済が崩壊いたしましてから、日本の政治家は次々と脱税事件をやったり、お金を貯めたり、まさに日本のりーダーとなるべき政治家があれでいいだろうか?というような。そして刑事事件にさえなっていく。現在仙台の市長さんの汚職の間題が出ていますが、あるいは茨城県の知事もそうであったように。しかし、これをしかけたのは、企業側のゼネコンであった。一体これは、政治家だけを責めていいだろうか。我々の企業というものの側に、本当にそういうことを真剣に考えていた経営者があっただろうか。私はこうした次々やってくる不祥事を見て、本当に背筋が寒くなる思いでございます。
 従って今こそ、政治家もわれわれ経済人もやっばり諭理を明確にして、いかにして社会的責任を果たしていくかを考えていかなければならない。また社会はそれを求めております。それにどう答えていくかが大変重要な時期になってまいりました。さあ、今、バブル経済が崩壊してから、長期不況に入っております。大変な不況感で、なかなか先が見えないようで
ございます。そういう中にありまして、いろんな変革がおこっております。まず、黙っていても売れた、あの大量生産大量販売時代には見ることのできない、新しい価値観によって生み出していかないと、物は売れません。今日、佐々木学長さんのお話を聞いている間につくづくその感を深めました。人の心の動きは次々変わっている。その人の心の動きを、あるいはそこからおこる生活スタイルを、どううまくとらえ、そこに必要な物やサービスというものを我々はつくりだしていくか。これができない経営者は、失格というわけでございます。そこには、模倣の技術であるとか、あるいは人まねは許されません。当然ながら、創造性や、感性に満ちたサービスや、そういうものを真剣に編み出していくそういう革新時代に入ったのではなかろうかと思うのであります。同時にまた、ご承知のように、ハリー・スチーブンソンも日本だけではありませんよ、世界のことを考えてくださいよとおっしゃておられましたが、まさに私もそうだと思います。当然素晴らしい技術を生み出した、日本はその技術を後進国に、あるいは中進国に輸出をいたしまして彼らにそれを教えることによって共存・共生というものをやる時代に入った。日本の企業だけが儲けるだけではいけない。それによって日本の空洞化がはじまるのではないかという恐れもありますが、そうであれば、もっと素晴らしい未来の技術を開発してゆけばいいではないかと思うのでります。もう既にできあがったものは、どんどん後進国や中進国へ移していって、彼らの経済力をあげていくという、そういう国際分業時代へ入ったのではなかろうかと痛切に感じるのであります。その上に、現在は情報化、高齢化、あるいは地球環境をどう保全するかという時代に入ってきました。先般の九月十五日は敬老の日でございました。私も芦屋に住んでおりまして、芦屋の市長さんから招待を受けまして、初めてのぞいてみようということで、いってみたのですが、何と驚くなかれ、六十五歳以上の高齢者の人たちは、国民の13.5パーセントといいますから1,687万人にのぼるのであります。これは、ある一国の人口に匹敵するのではないかと思うのであります。当然そうするとこの人達にどういうものを提供していけばいいだろうか、そこで私は重要な新しい産業というものが生まれてこざるをえないと感ずるのであります。私の方はスポーヅですから、たとえて言えば、グランドゴルフであるとか、その他それに類するお年寄りでも自由にやれるような新しいニュースポーツをどんどん開発して、提供しているのです。いずれにいたしましても、このような困難な時代に直面した経営者というものは、どうやってその社会の変化というものに対応していくか、これが大変大きな課題になってきました。同時に社会的企業というものは、儲けるだけではいけません。企業内だけを満足させるだけではいけません。上がった企業の利益の一部は当然社会に還元して、そして企業の社会的責任を果たさなかったらいけませんよという非常に厳しい要求が出てまいりました。すなわち、フィランソロフィー(人道的な立場からの社会奉仕)の時代になってきたということも言えようかと思います。私はいつも思うのでありますが、二のような変革の時代に、一体経営者はどのような経営理念を打ち立てながら、多くの従業員を、あるいは関連する社会をリーダーシップをとっていったならばいいだろうかということであります。
   
二通りの企業のサバイバル戦略
 実はそういう面から、企業というものを一度分析をしながら、話をしてみたいと思います。企業がこうした厳しい社会にサバイバル戦略を敢行していくということがいえますが、まず二通りあると思います。その一つは、中小企業が生き残る戦略であります。これは弱者の差別化戦略といっています。それでは、それに対抗して大企業はどのような戦略をもっていったならばいいだろうかといいますと、すなわち、これはスケールメリットをとことん追求していく、いわゆる強者の戦略であります。「弱者の戦略」とは、「山椒は小粒でピリリと辛い。」この味を企業の中にどのように生かしていくか。ある一点に集中し、人まねではなく、俺の企業の特色をどこに求めて、どのように独特の味つけ経営をやっていくか。これが中小企業の戦略です。
 「強者の戦略」とは、大企業の戦略は持てる物や人やお金や、あらゆる総合のものをトータルでとことんスケールメリットを追求してその力によって小さいものを踏みながら、また大きなものに向かっていく。こういうふうに、二つの戦略があると言えるのではないかと思うのであります。(もちろん共通する部分もありますが。)私は三十二歳で創業しましたが、実は無一文でスタートしました。創業にあたり、私の義理の親から電話一本、机一つを借用して、その上全く技術を持っておりませんでした。昭和二十四年に、そこからスタートをしました。そして、ようやく昭和三十九年、あの東京オリンピックのあった年でありますが、創業以来十五年間、これによって、ようやく大阪の証券市場の第二部に上場することができました。当時、私の所属しますあの長田区のゴム履物企業は約四、五百社ありましたけれども、実はいまだに上場した企業はありません。もちろん、別の産業の会社はありますが、履物だけをつくっているメーカーが現在でも五百社近くありますが、未だに上場するという企業は出ておりません。ふりかえって見ますと、私の企業経営は大阪二部上場迄は、正に中小企業の戦略です。徹底してどうオニツカというものの特色を出していくか。それから、十年、昭和四十九年、あのオイルショックの始まるころです。そのころには既に、オニツカ株式会社は当時大阪、名古屋、東京の一部市場に上場し、大企業に列して大きく展開しておりました。この十年間の戦略は、強者のスケールメリットを追求する戦略でありました。これは何か。総合スポーツシューズを揃えて、そのスケールの大きさの特色をもって、スポーツ業界に大きくシェアを確保して、スポーツシューズでは、ついに、日本のナンバーワンとなり、世界の三大スポーツシューズメーカーの一つになってきたのであります。さらに一部に上場して、資本調達を円滑にして、その資本の力を大きくしていこうということであります。そうして、昭和五十二年の七月の二十一日に、先に申し上げましたように、スポーツシューズ専門メーカーでありましたオニツカ株式会社、これが軸になって、大阪でニット、スポーツウェアのメーカーでありました株式会社ジィティオ、福井から出てきましたニットの同業スポーツメーカーでありましたジェレンク株式会社〔この両社ともいずれも従業員が五百人、売上げが百億円、立派な中堅企業です)が合併していったわけです。そこではじめて総合スポーツ商品を扱う、総合スポーツ用品メーカーになっていったわけであります。これによって、アシックスは一挙に世界戦略を始めることになります。まず、資本の充実をはかるため、ヨーロッパから金利の安いお金を集めて、高い利子の日本の銀行の借入金を全部返してしまう。斯くして、社債を発行することによって、約680億円の資金を集めたのですが、それから転換社債にあたってプレミアム約240〜250億を白己資本に組み入れていきました。ついに、合併創業してから7〜8年たって夢にまで思った無借金経営になりました。このように、あらゆるスケールをうまく活用しまして、合併して三者の力を、違ったカテゴリーの商品を、一つの大きな袋にいれて世界の市場に出していく、これがまさに強者の戦略でありました。こういう過程を経て、世界で、販売会社をアメリカ、オーストラリア、ブラジル、シンガポール、台湾、韓国、ドイツ、フランス、イタリア、英国、オランダにつくって、直接現地法人であるアシックス販売会社が商品を販売しています。そして、生産は、中国・インドネシアをはじめ世界十数か国に生産基地を持っております。そしてブランド、技術ノウハウをそれらの国の系列企業や工場に与えまして、そこで、現地でつくって、現地の国に販売する、あるいはまたそれを海外に輸出をさせる、ということで、非常に大きく展開をいたしております。従業員も約五千名おります。咋年のバルセロナ・オリンピックでは世界にたくさんのスポーツシューズメーカーがあるなかで、アシックスはただ一社だけ選ばれまして、オフィシャルスポーツシューズサプライヤーに指名を受けまして、8万6千人のオリンピックを運営する人達のシユーズは全てアシックス製品となりました。あの大会に参加した、世界の選手が、アシックス製品で五十四個のメダルをとってくれました。現在そういう会社に成長しております。
   
中小企業の生き残り戦略を探る
 今日はなぜそのような会社になりえたかということで、最初の中小企業の生き残り戦略のことからお話しをしてみたいと思います。企業経営を分析してみますと、守りの経営と攻めの経営に分けて考えることができると思います。守りの経営といいますのは、じっとして何もしないということではない。これは内を守るということでございまして、すなわち、いかにして人材を育成していくか、人をつくっていくかという、そういう企業の基盤をつくるということであります。
 攻めの経営は何かといいますと、素晴らしい商品を開発し、素晴らしいサービスを開発していき、社会のニーズにそれを供給していく。すなはち、マーケティング戦略といいましょうか、そういうものを私は攻めの経営といっていいのではないかと思います。守りと攻めは一体でございます。一つのものでございます。ただ説明の過程で私がそう分けたわけでございます。さて、ここは関西、神戸ですから、巨人のことは言いにくいわけでありますが、かつて巨人が川上監督だった時に、あの厳しい社会で九連勝をしたことがありました。彼の奥さんが神戸の出身なんです。おやじさんが鳥取県人でございまして、「おやじさん、すまないけど、ちょっと川上さんを呼んでくれないか。」といいますと、「お安いご用だ。」というわけで、彼を神戸へ呼びまして、あの九連勝をやった秘密は何だということを川上さんに徹底して追求してみました。彼の野球哲学と、私の哲学とどうちがうのかと。野球は、すなわち守りと改めのチームワークによって成り立つ。なるはど、企業もそうだな。内を守り、外を攻め、これが一体になっていかないといかんな。野球は勝たねばいかん。企業は利益を上げなければいかん。なぜか。企業は存続をしないといかん。野球は勝たないとボーナスが下がる。個人のギャラも減つてくる。だから勝たないといけない。そこで、勝つためにはどうするのですかと聞きますと、彼は「野球はチームプレーである。
 個々の人達をとことん特色を出して活かしながら、それをどうやって一つのパワーにまとめて、そのパワーを相手に持続してぶつけていくかということである。」そこに、最期の人生において勝つ一つの要秦がでてくるんだ。だから、一部には川上監督の野球を管理野球であるといっておりましたが、彼は、チームをまとめるため、チームのパワーを上げるために、一人ひとりの選手を。細かく管理していった。しかし、やる気を出させないで管理だけすると、だめですから、どうやって一人ひとりの特色を見いだして、彼らにやる気をおこさせるか、特にやる気をおこした人間をどうやってまとめるか、大変苦労しました。彼の話を聞いている間に、非常に、私は経営というものと同質のものを感じるところがありました。
   
守りの経営
 そこで、まず守りの経営ということでございます。企業というものは、人にはじまり、人に終わる。何といっても企業の根幹は「人」であります。その人がどうやって育っていくか、人は企業の財産です。こういうことを、本当に経営者がきちっと理解をしているだろうか。それを理解していない経営者は、もうすでに失格である。だから立派な人材が育つてそして経営者と一体になる。労使が一体になる。そこにマンパワーというものを発揮させて、そして厳しい競争に打ち勝っていくんだと。そこで、私は人を育てるにはどうやったらいいのかと考えてみますと、近代的な企業基盤を整備していなければならない。近代的な企業基盤の真髄は何かといいますと、そこの企業経営をどうやっていこうかという基本になる経営哲学、経営理念を明確にしていかなければならないと思うわけでございます。よく私も聞かれます。「おい、鬼塚、お前、経営で苦労しているが、一言でいうとなんや。」「人を育てることです。」人を育てること、これが経営の全部だといってよい。これに失敗しますと、企業は発展しません。そこで、人を育てるには、まずどうやったらいいかというと、経営者の経営姿勢、経営者の資質、それが大変重要になってくる。だから、人を治める前に、まず自らを修めなくてはならない。企業が繁栄するには、その経営者の器をみればよい。大変これは重要なことなんです。銀行の支店長は中小企業に何をもって金を貸せるか。その経営者のいわゆる器量というものが、本当にその企業を育てるだけのものがあるか、また多くの人の信頼というものを得ているだろうか。これをよく見ている。「あいつ、口はうまいが、チャランポランで、やっていることと、言うことが全然違う。」ということになりますと、銀行からお金は借りられません。貸しても、担保をとって、銀行は全く損をしないようにしているわけであります。
   
まず経営理念の確立をはかる
 ゆえに、企業の繁栄というものは、その経営者の器量、資質に正比例するといわれておりますが、まさにこれは自然でございます。「では、鬼塚、お前はいったいどういう経営理念をつくりあげたのか。」実は、私は創業の時から、何としてでもこの会社は持続させて、日本の青少年を立派にするのに役立つぞ。俺がくたばったら、次のやつをきちっとつくっていく。すなわち企業は永遠に発展、繁栄をしていくべきものだ。」ういう気持ちを創業当時から持っておりました。まあ、これは私の経営哲学ではなかろうかとおもいますが。そうしますと、企業というものは、いろいろな思想のものが集まってきますから、当然大切なものが企業の目標であります。目的です。それを明確にして、全社員の思想統一をはっきりしていくという、それを経営理念といい、経営哲学というわけであります。最近、コーポレイテッド・アイデンテイテイー、すなはち企業はCI活動というのを盛んにやっております。それは、そこをいうわけであります。建物の形や、色や、いろんなもので企業の理念をどう表現していくか。それによって、やっばり企業というものを発展させていこうということであります。たしかに、優れた経営者、優れた企業家というものは、彼らのもっている人生観や社会観や、世界観、こういうものからはとばしっていく経営哲学というものを持っております。そして、それを根幹にして経営をやっていくわけです。なぜ、そんなに重要なのか。これは、われわれ人間はひとりで生きていくことはできません。企業も同じです。人と人の集団の中に生きていかなかったらいけないわけです。とすれば、その思想の実態というものは何であろうか。これはいうまでもなく、利己と利他、この関係というものが、共に幸福になっていくという理念であり、これが根底になってこそ、はじめて人間集団というものはうまくいく。当然ながら、企業というものも、一つの集団でありますから、うまくいくわけであります。私も、長い間、社長をやっております。創業者社長の自分の利益・欲得と、働いている従業員の欲得と、どうしたらいいかなと、これが問題なのです。あるいは、会社と取引をしている多くの人々との間をどう関連をつけていったらいいのだろうか。また、会仕と社会との関連をどうつけていったらよいか。これが、すなわち、利己であり、利他であり、この関連というものが絶えず頭の中に入つていけば、必ず一つのコミュニケーションもうまくいくし、人との共存もできますし、共生もできているのではなかろうかと思います。だから、その企業の経営理念が正しかったならば、必ずその企業は繁栄します。もし、間違っていれば自滅するかもわからない。私は、あの松下幸之助さんに、二回ほどお目にかかったことがあります。あの松下幸之助さんがいわれるには、「近代的な経営理念を確立しない経営者の企業はうまく繁栄しませんよ。」といっておられます。かつて昭和五十六年ごろでしたか、毎日新聞の経済人賞という、日本で年に二人ユニークな経済人に与えていただく賞ですが、これをたまたまいただきましたものですから、門真に行きまして、毎日新聞が相談役との対談を決めました時に、いろいろとお話を承ったわけであります。その時に、「まあ、鬼塚さん、哲学といい、経営といい、そんなに難しく考えなくてもいいですよ。経営者は、宗教心をお持ちなさいよ。ただし、正しい宗教心をお持ちなさいよ。」ということをおっしゃいました。この言葉は、かつて私が経験したある時期に、松下幸之助さんが、創業十年の時に社員に向かってされたそのことを思い出して、そう感じました。従って、鬼塚、お前はどういう経営埋念を確立したのか。最初から皆さんの前でいえるようなことはありませんでした。やはり、その間、十年の歳月を要しております。
   
倒産寸前に至る
 創業十年という、ようやく自分の経営理念を明確にして、それを文章にして、そして全社員に徹底していくということができたわけなんですが、しかし、この十年をふりかえってみますと、まさに、七転八起、創業三年目には、とうとうお金が足らなくなりました。無年毎年、赤宇、とうとうそのしわ寄せがきまして、あくる正月の三日にまわってくる手形がわずか三十万円でありましたが、もう落ちない。暮れに金を集めよといっても、全く集まらない。三十万円の手形を落とす資金がなかった。じやあ、正月の三日になるといよいよバンザイだな。倒産だな。三年間の苦労を振り返りまして、まことに残念だな。しかし、お前は残念がっておつてはいかんぞ。お前が不渡りをすることによって、誰に迷惑をかけるのだ。まず、第一が、その手形を支払つている、いわゆる技術を教えていただいた、長田村にあります、矢仲ゴムエ業所、あそこの矢仲社長に、三十万円の損害を与えることになる。二番目には、従業員を失業させなければならない。三番目には、家族が食えなくなる。まず、なんといっても、暮れになって一番ご迷惑をかける、矢仲ゴム工業所の矢仲社長のところにいきまして、「社長、相すみません。一生懸命に集金しましたが、三十万円が集まりません。三日たちましたら不渡りになりますが、どうぞ許してください。どうやってこれをお返しするかを考えましたが、一つのお願いがあります。私は家は貸家に住んでおりますから、担保にはなりません。商品も持っておりません。持っておりますのは、私の体だけです。どうでしょう。私の体をあなたの会社にお預けしますから、正月から私を使ってください。その、上がりの給料でもって、一年かかるか、二年かかるか知れませんが、とにかくお返しさせてください。もう、それしかお返しする方法はございません。もうひとつお願いがございます。従業員がわずか六名ですが、これが路頭に迷います。私を信頼して、今日までついてきてくれました。失業させることはできません。できましたならば、この従業員をあなたのところの従業員として、働かせてやってください。」と、この二つをお願いしました。
 そう言いましたところ、この社長、じつと考えておりましたが、「お前は正直なやっちゃな。だいたい、不渡りになって行ってみると、商品はないわ、夜逃げはしているわ、もう全くとるものがない。そういう世の中に、お前はまだ不渡りを出してない先に、こうして来てくれた。感心なやつや。わかった。その足らない金は、俺が全部銀行に振り込んでやる。俺が工面してやる。だから心配するな。これまでどおりに仕事をつづけろ。」私はこの社長の言葉を聞いている間に、正直者はバカをみない。努力する者は報われる。だから、みんな一つやろうやといって若いものを激励してきた。しかし、その挙句、このような事態になった時に、この社長の言葉を聞いて、「天は自ら助くる者を助く」とは、よくいったもんだ。このご恩に報いるために、必ずこの仕事を持続してやろう。そのあたりから神戸のゴム履物業界には上場企業がない。よし、第一番にオニツカが上場企業になっていこうではないかということも、夢の中に考えるようになっていきました。昭和三十九年に、中小企業の優等生として、上場会社とされましたが、その時の株をこの社長のところに持っていきまして、「社長、お陰をもって、あの時に助けていただきました。どうか、現金でなく、株をもってきましたが、この株は上場しましたので、いつでも現金に換えられますので、私の汗と油でもって築き上げた株ですから、ぜひお受け取りいただけませんか。」と言ったところが、「お前は、まだあのことを忘れずにおったのか。」忘れるどころではありません。どうやつたら、あのご恩を返していくか。どうやつたら、あなたの期待されました企業に育っていくことができるか。このことが、私の大きな励みになりました。」こう言いましたところ、「もういいよ。あれは時効になつている。それよりももっともっと、いい商品を開発して、俺も生産の一部を担当させてもらつているのだから何でも言つてくれよ。お前の気に入るシューズをつくってやるからな。」といって逆に激励していただきました。
   
病に倒れる

 さらに四年目、新製品の開発で、各都市にセールスにまいります。お金がないものですから、せいぜい周遊券を買いまして、帰りは必ず神戸に帰ってきます。そして、三食の食事代、それから毎日留守をしている若い社員に、指令を出すために速達を出しました。それから、電車賃、ホテル代、ところが、そのホテル代がありませんから、夜十時、十一時に、駅のベンチにいつて無料宿泊をさせていただいた。そういう苦労をいたしましたお陰でとうとう過労が出てまいりまして、最後の得意先をまわって掃ってまいりまして、病院で診てもらいますと、「お前、こりゃー大変だ。肺病になっておるぞ。」熱がでておりましたが、「そんなもの、何でもありません。」「無茶を言うな。もう入院しなさい。もう明日から入院しろ。今日帰ったら、入院の準備をしろ。」こういうことがありましたが、今入院しましたら、会社が倒産します。若い社員も路頭に迷います。それどころか、ようやく素晴らしいバスケツトシューズ、素晴らしいバレーボールシューズというものをひとつひとつ工夫して、今の新しいスポーツに合うシューズを開発しまして全国に販売している、それができなくなると、どんなに彼らが悲しむことか。だから入院しません。とうとう入院を拒否しました。そして、自宅療養をして、毎日社員を枕許において仕事の指示をしていました。ある日、医者がとんできて、「お前は運のいいやつだ。」「どうしたんですか。」「新しい肺病の特効薬パスが出たよ。これで治るかもしれない。高いけどな。」「しかし、先生ぜひやってください。」といって、治療をやっている間に、とうとう熱も下がり、再起不能ともいわれていた肺病もようやく二年目に病床から出ることができ、営業をどんどん活動していきました。

   
新製品の開発に苦労する
 そうすると、また七年目です。当時新商品の開発では、大変苦労をいたしました。例えていいますと、マラソンの大会にいきましたときに、マラソンの選手の足を調べてみますと、被らはみんな豆をつくつております。一体、この選手達が足の裏に豆をつくらないで走ることができたならば、どんなに記録は向上するし、多くの選手がマラソンを走るようになるだろうな。そう考えましたときに、当時、メキシコ・オリンピックに銀メダルをとりました君原選手が、当時、八幡製鉄の陸上部の選手でしたが、「なんでこんなものができるんだ。」と聞きますと、「我々は、これを克服しないと、一流の選手にはなれませんよ。これは、我々の宿命ですから。」「そうか、それじゃあ、ひとつ、豆のできない靴をつくってやろうか。」「あんた、社長、何が何でも人をおちょくったらいけません。そんなことができたら、私は逆立ちしてマラソンしてみせますよ。」「よっしゃ。その言葉覚えておいてくれよ。俺は必ず豆のできない靴をつくってやるからな。」そこからです。どうやって豆ができるか。どうやって豆ができるか。何度考えても、文献を漁っても、進駐軍のお古のバスケットシューズを求めて分解しても、全然そんなものはありません。ある日、つくづくと、こりゃお手上げだ、そして風呂に入って自分の足を見ておりました時に、「なんや、お前、靴屋のおっさんのくせに、自分の足に豆がどうしてできるのか解らないのは恥ではないか。これは、医者にいけ。医者ならば、人間の肉体構造は全部知っているだろう。」こう、パッとひらめきまして、明くる日、私はある人の紹介で大阪大学の水野外科部長のところにとんでいきまして、「先生、何であんな豆ができるのでしょうか。教えてください。」そこで、私ははじめて豆のできる原理をおそわったのです。それは、一種のやけどのできる原理です。やけどというのは水ぶくれができる。なぜ、水ぶくれができるかというと、体内にあるリンパ液が、自分の体を守ろうとして、そのやけどをした筋肉のところを守ろうとして、あのリンパ液が集まって、水ぶくれになることがわかった。「この底豆は先生、なんでできるのですか。」これはいうまでもなく、マラソンでは2万歩堅いコースを踏みっける。すると、衝撃がおこるから、衝撃熱というものがおこるのです。私は60キロの体重があります。じつと立っていると60キロだけれども、歩くと1.5倍の90キロ、走ると3倍の180キロの体重が体にかかる。この180キロの体重をかけて走っているうちに、足の裏に衝撃熱がおこる。下はコンクリート、アスファルトで固い。その衝撃熱によって、やけどをするのです。やけどの現象がおこるのです。足の厚い皮膚と筋肉の間に。そこで、リンパ液がどんどんここに集まってあの底豆になるのだ。私は、なるほどな、あの底豆は、衝撃熱によっておこるやけどなのか。「先生、では豆を防ぐ靴というのはどうつくったらいいでしょうか。」「それは、お前さんのやることじゃないか。あんた、靴屋じゃないのか。」「ああそうでした。では考えます。」といってはじめて、そこで考えた。どうやって、あの熱をとるか。最初は自動車のエンジンのいわゆる水冷式です。ラジェーターは水を使って、エンジンを冷やし、車は走つていける。ああ、簡単じゃないか。ようし、じゃあ、マラソンの靴に水を入れて走ったらいいじやないか。さあ、やってみたらどうなったか。ジャブジャブ、ジャブジャブ、これは足の裏はむくむわ、これはいかんわいと。そこで、ほかに何かないかと考えると、オートバイがある。ではオートバイの原理はどうなっているかといいますと、これは空冷式、空気で冷やしながら走つているんです。よしこれだ。この空気で、足の裏を絶えず冷やしながら走ったら必ずやけどしないぞ。案の定、前に穴をあけて、バーンとやつてみたら、踏みつけると、中の空気がみな出てしまった。すると、また冷たい空気が入ってきて、後ろにすっと抜けていく。いわゆる冷たい空気のベンチレーションでもつて足の裏を冷やすような空冷の靴をつくったのです。これは世界ではじめての発明特許商品でした。
 「おい、君原君。豆のできない靴をつくったぞ。」「また、社長、あんた人をおちょくる。」「いや、これだ。これを使ったら必ず大丈夫だ。」「見せてください。なんとヘンテコな靴ですな。」「いや、これが絶対まねのできない靴だ。これは医学の方から体の構造を分析して、それにかなう原理でやっているから、絶対に大丈夫だ。今日はテストをしてみなさい。」彼に走らせて、私は自転車でついていきます。20キロぐらいになると、ぼつぼつ足の裏が赤くなって豆ができてくるんです。25キロ、30キロでもつと出てくる。40キロになると豆だらけ。ところが、今日は、桃色にはなっているけれども、豆はできなかった。その靴をはいていると。「どうや。」「いやー。こんなもんができたら…。」
 「そうや、あんた、逆立ちしてマラソンしてみせると言うたな。やれ。」これは、マラソン界の革命だった。だから、君原はあの炎天下のメキシコで、ついに豆をつくらないで、アベベには負けましたが、彼は二位になりました。それは大変なことでした、あの当時。アベベはローマのマラソンの時は裸足でマラソンの優勝者になりました。一躍世界の裸足の王者になった。私はオリンビックのローマに行きまして、彼の帰ってくるのを見ていた。これは困ったことになったな。あいつ、裸足で走つて、あれが世界中に普及したら、これは靴を買わんようになるのではないか。靴が売れんようになる。なんと困ったことだ。ようし、必ずアベベに靴をはかせるぞ。こう私は決心した。幸いに神様はちゃんとチャンスを与えてくれました。あくる年、昭和36年に、毎日マラソンというのがあるんです。そこで、金メダリストを招待したのです。当時は村社(むらこそ)講平さんという中距離の名選手が来ておりました。「村社先生、すまないが、アベベのところに連れていつてください。」といって、アベベの部屋にいって「どうだ、靴をはかんか。」というと、「俺は靴は要らん。」という。私は、「日本の道路は君の考えているエチオビアと違つて、ガラスの破片がたくさん落ちている。必ず、お前の足を傷つけるから、お前の黄金の足はお金にならなくなる。だから、足を守るために靴をはくんだ。そのかわり、はいているか、はいていないか、わからないような素晴らしい靴をつくってやるから。」すると、彼はコーチと相談するといった。コーチも同じことをいうと、「わかった。ミスターオニツカ。じゃあはいてみよう。」
 早速、彼にあう靴をつくってやって、これがアベベにはかせた第一号の靴になったわけです。そういうふうに苦労をしまして、一つ一つの専門、専門を極めて専門シューズを開発してゆきました。私はマーケテイングでキリモミ商法といっているのですが、中小企業というのは、持てる力が限られているから、何でもかんでも大手企業が、あれに成功している、これに成功しているからといって、そのまねをしたらいかん。絶対にいかん。自分の力の範囲内で、ある一点のお客を選んで、それに徹底して追求していって、それに合うものを追求していったならば、必ずそのお客にご満足のいく商品ができてくる。ご満足のいくサービスができていくから、それらは・中小企業の貴重な力になる。私は最初にバスケットシューズをやりました。幸いに、神戸高校にバスケットの松本幸雄という素晴らしいコーチがいまして、被の指導を得て、とうとうタコの吸盤の原理から、急ストップ急スタートのきく素晴らしいバスケットの靴をつくりました。キリというのは、先が非常に鋭い。これに当てると、小さいけれども穴があく。鉄の扉でもドリルを持ってこい。ドリルを使うと、小さいけれども穴があくだろう。この原理だ。我々・中小企業の持っているものは、人材の力、オヤジの能力、お金の力、全て何をとってみても大企業には遅れをとっているが、だから大企業があまり力をいれないところに目をつけて、そこに一点集中だ。これをキリモミ商法という。キリでもむようにして、自分の仕様をきちっととりなさい。それをきちっととっていくと、いろいろな方法がわかってくる。次はどの仕様をとるか。次はどの仕様をとっていくかということがわかっていくし、そのノウハウを得ていくと、小さい仕様ごとの商品の開発ができてくるのです。おそらく、これは、どの商売でもいえるのではないかと思います。
   
再び病に倒れる
 このような苦労をいたしまして、七年を迎えました時に、またまた、旅先で喀血して倒れました。帰ってみますと、今度は胸に空洞ができています。ちょうど親指ぐらいの空洞が肺に四つでさています。「あんた下痢をしているだろう。」「はあ、下痢をしとりますが、何でものに当たって下痢をしたのか全然わかりません。下痢止めを毎日飲んでいるが全然効かないんです。」
 「そりゃそうだ。あんたの胸の肺結核菌が腸にきて、腸結核になっているんだ。だから下痢するのは当たり前だ。今に見ておれ、咽喉結核になるぞ。この菌が上にきて、咽喉をやられる。三点セットになったら、生命はおさらばになるぞ。」このごっついお医者さんは、他人のことを何とも思っていないと思いながら、私の従兄弟が鳥取で、腸結核、肺結核の二つの病で死んでいますから、その上、咽喉にきて三点セットになったなら、当然、なんぼ生きても、半年や一年で死ぬであろう。先のときは、薬でなおったが、今回は効かない。まあ、死の宣告を受けたわけです。その時、私はどう考えたかといいますと、せっかくここまで育った、ちょうど従業員が百名近く、工場も自分の工場が建つたころで、長屋の一角でやっていましたものを、三宮駅の裏側に、新たな土地と家屋を買いまして、ようやく本格的に全国展開をやりかけた時でありました。さあ、その時に、私は「これは困ったけれども、何としても、もし、俺の生命がなくなっても、この企業を残したいな。」お医者が、「なあ、鬼塚君、企業も可愛いけど、やっばりお前の生命も可愛いぞ。たとえ、半年でも生き延びてみろ。たくさんの人がそれだけ喜ぶよ。だから入院しなさい。企業はもう捨てなさい。」こう言われた。それで、私は、「いや、もうあなたが死亡宣告したんだから、たとえ病院に入って、半年や一年長びいたところで、いずれ亡くなるんだから、それだつたならば、俺はこの会社の宿直室に居て、ここで闘病をやります。そして、私の生命のある半年か、一年の間にこの企業の後継者をどうしてもつくります。これが、私のこの企業をおこした時の大きな目的です。日本の青少年をスポーツを通じて立派に育てていく。ようやく人気が全国にいき渡りましたから、今更、私の病気で、はいおさらばというわけにはいきません。だから、後継者を養うについては、どうしても現場におって指揮をとらねばいけません。」こういうわけで、四畳半の宿直室で闘病をはじめたわけであります。しかし、一年くらいたつと、とうとう咽喉結核になり、いよいよ医者の言ったとおりだな。しかし、まだ後継者は見つかりません。若い社員とともに仕事をやりながら闘病生活をしておったのですが、かつて私は戦争中軍隊で学徒兵を教えていた時に、神戸大学を出まして、学徒兵で入隊してきた兵隊の中に大変優秀な男が神戸におりました。彼のことが気がかりだったのですが、私が病で寝ている時に、突然訪れてまいりまして、「教官殿、どうしているのですか。」「いや、俺はもうあと半年か、一年しかもたんよ。しかし、お陰で企業は、全国に、マラソンの靴、バスケットの靴、バレーボールの靴、というように人気が出たのだから潰すわけにいかん。これを後継していくひとを捜しているんだが、お前こそ天が与えた人だ。俺の仕事を継いでくれ。」といったところが、さすがに彼は神戸大学からエリートの商社にいっておった男ですから、なかなかうんと言いませんでした。あれだけ言って、ダメかなと思っていましたら、半月ほどたって彼がやってきました。「教官、実は私はあんたの企業理念、企業の考え方に非常に感銘しました。よし、やってやろうと思ったけれども、家族が反対いたします。で、家族の説得のために半月かかりました。ようやくそれも説得しましたので、ぜひ一つやらせてください。」そこで、私は「よし、やってくれ」ということで、闘病生活を続けておりました。ここでまた天が助けてくれます。肺病の第二の特効薬ストレプトマイシンなどができてまいりまして、これを飲んでいる間に、またまた再起いたしまして、下痢も止まる、熱も下がる、咽喉も声が出るようになりよくなってまいりました。ちょうど二年間の闘病生活でまたまた再起することができたわけなんです。
   
誘惑との戦い
 ここからが、今日どうしても申し上げなければならないことであります。お陰で、当時タイガーのスポーツシューズは大変人気ものでありました。各小売店には競っておいて頂くようになりました。資金が無くなりまして、あれだけうんと言わなかった銀行もよろこんで金を貸してくれるようになった。兵庫県の中小企業の工業診断を受けますと、「お前のところは、中小企業の優等生だ」と。中小企業庁の表彰をうけられるまでになっていた。間題はここからです。特に私の住んでおりました家は、借家でしたけれども、これを買い取りまして、社員寮にしまして、私の郷土の鳥取から若い学生を五・六十名人れまして、そして寮教育をしながら労働力の確保をはかっていました。私の家内は寮母をさせまして、飯炊きをやらせていました。そして、子供も二人ありましたが、六畳の一間に住まわせ、家庭生活を犠牲にさせながらやっていた。そのころ、「お父さん、いつまであなたはこんなに家庭を犠牲にするんですか。」といわれました。もう子供は学校に行きます。このあたりの家は大変いい家がありまして、寮の一室から通っているなどという子供はいない。まあ、社長も楽になったんだから、ぜひいい家を一軒建てなさい。建たなかったら、せめてアパートでも買って、そこから通うようにしたらいいのにといいます。当時、自転車でもって三宮の営業所から、長田の工場まで通っていたわけでありますが、肺病あがりですから苦しいんですね。そこで、社員が見かねて、「社長、どうやろ、そんなに苦しかったら、スクーターぐらいは買って、スクーターに乗ったらどうか。」と、ようやくスクーターに乗るようになりました。長田村に行きますと、どの工場の前にも、立派な自家用車が並んでいます。当時、経営者は非常に儲けていました。ある日、仕入れ先の社長が、「まあ、鬼塚さん、近ごろよく買ってもらいます。あんたに慰労のために、お食事をさしあげたい。」という。で、三宮の今はありませんが、ある料亭で食事をいただいて、さあ、もう今日は社員が残業をしているからこれで帰るといいましたら、「まあ、今日ぐらいはちょっとつきあってください。」というので、ついつい行ったところが、三宮の、あの青い火、赤い火のクラブであります。「わあ、こんなところがあったんかいな。」イスに座ると、可愛い女の子がきてスッと手を握る。社長というものはええもんやなあ。月に何回か来て遊ぶのもいいなあ。俺はこんなことは無かつたな。
 ええ顔をして、寮に帰ってみますと、「お父ちやん、あんた、いつまでどこにおったんや。三宮の、営業所から、『社長はまだ帰っていないですか。今日は徹夜して残業やというのに、全然社長は帰って来ん。』といって何回も電話がかかってきました。」とのこと。三宮のクラブに行っていたなどどいうことは言えませんし、「いやいや、今日はな、お得意先に招待されて、逃げられなかったんだよ。」といいながらも、心は疾いたのであります。
 さあ、あくる日、営業所に行ってみますと、山のように荷物が積んであります。「社長、あんた夕べ帰ってこなかったけれど、わしらは徹夜してこれだけの仕事をしました。今月は新記録が出ますよ。「私はこの若い人達の気持ちを考えてみた時に、お前は夕べ、何をやっていたんや。こうやって、本当にこちらの心臓をさあーと刺されるように。家に掃ると、今度はこちらから心臓を刺されるように思われました。これは大変やな。しかし、考えてみるとよその会社の経営者は皆やっとるぞと。俺は創業者だし、俺は社長だ。何でやれんのだ。おかしいじゃないか。と、別の心はささやくのです。ところが、こちらの心は、いや、お前、そんなことをやってみろ、お前を信頼して、鬼塚の看板を信用して、鬼塚を買ってくれ、決して鬼塚は裏切らないからと、今までいい恰好ばっかり言っておいて、その社員をお前は騙したんではないか。お前がそんなことに走れば、社員もどんどんやりまっせ。集金を使いこむ。在庫を盗んで売り出す。そうなったら、お前がこの会社をつくった目的はどうなるんだ。
   
マズローの欲求五段階説
 俺は悪い気持ちになったな。そこで、実は大変重要な一つの間題にぶちあたりました。すなわち、自分の欲を先にすべきか。いやいや違う。従業員の幸せを先にしてやるべきではないか。こういう経営者としての私利私欲、一緒にやってきた従業員の欲望というものを一回、どうゆうふうにして考えたらいいかな。残念ながら、私は中学しか出ておりませんから、哲学なんか習ったことがありません。もし、哲学を習っておったならば、このへんの対応を、きちっとわりきってこうやるがなと。そこで、実は、当時アメリカのマズローという人の、行動科学の学者がおりまして人間の欲望というものを五つに分析しております。すなわち、第一の欲望を生存欲、第二の欲望を安定欲、第三の欲望は社会欲、第四は自我の欲求、そうして第五番目が最後の欲求である自己実現の欲求であります。個人主義仕会でありますから、個人の欲求を限り無く伸ばすことが絶対の幸福であるという価値観を打ち出しています。マズローはうまいことを言った。俺の商売はうまくいつたし、社長だから自家用車に乗るのは当たり前ではないか。まあ、時には人に迷惑、社に迷惑をするんではないから、夜遊びにいってもいいではないか、とこういいだすんですね。
   
松下幸之助のとった決断
 ところが、そこで思い出したのが、松下幸之助さんが創業十年の時にどのように決断をされたか。まだ、従業員が百名ぐらいの時、(ちょうど私も九十何名ぐらいの規模の時だったんですが)、あの方も非常に信仰心のある方でしたが、ある教団をご覧になってそこで働く人たちが実に真撃に働いている。何でこの集まった人たちは、誰にも監督されないで、自分の目的を一生懸命やっているのか。もし、私の松下の会社が、集まっている従業員があのようにやったら、素晴らしい会社になるなと。しかし、みんながならないのは何でだろうな、と気がついた時、そうだ、松下という看板はかかっているが、みんなの会社やでと言うのは言っていたが、株式はみな松下の一族が持っている。社長になった気でやれよ、ええやりますよ、というけれども、これは社長に調子を合わせているだけで、社長がちょっと帰ってしまったら、社長はええことを言うけれども、会社が栄えていけば、当然これは社長の財産が増えるだけで、わしらは、なんにもないよ。社長の前では、具合が悪いからああ言うが、あんまりやるな、ばからしい。こういって、陰になったら言う。なるはど、これじゃやっぱりいかんわい。俺の日ごろ言ったことをきちっとやってもらわないといかん。ついに彼は、株式を社員に分けることを決断された。創業十年の時に全員を集めて、さあこの松下は、松下幸之助の会社だけではない。みんなの会社だ。それを実証するのに、株式をみんなに分け、みんなに資本家になってもらう。株主になってもらう。だから今日からみんなは経営者だ。誰もこの会社のオーナーだと思つてくれ。同時にわれわれがこれからやることは、日本の生活文化を創造していくんだ。水道の栓をちょっとひねったら、ちょろちょろっと、命の水が出てくるね。どこに行っても、出てくるね。それと同じように、どこの家庭に行っても、スイッチをひねったら、この松下のこの電器でもって、全ての家庭が生活文化を享受できるようにしようじやないか。われわれは、このように素晴らしい社会に貢献し、多くの人から喜ばれる仕事をやっていくのだ。松下一家の財産をつくろうとか、松下幸之助の財産をつくってくれとかいうのと違う。こういうふうにして、これは松下の水道哲学とよくいわれますが、松下は社会に貢献する企業だ、そこに集まる人は、みんながそういう一つの使命感をもってやっていこうじゃないか。わしのこうした意見に賛成する者は一緒について来てくれ。当時、この社長の決断がなされるや、みんなこもごも演壇に立って、それぞれの抱負をいうことによつて、ついに松下は後の巨大な松下を築く原動力になったのです。このことを私は思い出して、あの時に松下さんは「宗教心を経営者は持て」と言われた。確かに、マズロー教授のあの人間の欲望の分析は五つの段階で、最後は、物欲、精神欲、経済欲、あらゆる肉体の健康欲を満足した最高の幸せだと言っているけれども、もうちょっと私が納得しなかったのは、じやあ、自分が先になって従業員は後から来てもいいではないか、従業員は犠牲になっても自分だけよかったらいいじゃあないかというのが、個人主義社会の一つの考え方ではないだろうか。そういえば、ご承知のように、むこうはオーナーは会社を平気で売ってきます。会社は、これは商品だ。俺がつくった会社なんだからもうこの辺できりをつけて、お金に換えて、ゆうゆうとやっていこうということで、会社をバーンと売りにだすのです。従業員が働いているのがどうなろうと、あまり関係ない。これが、個人主義社会の企業を商品と思う現れではないか。だから、ドイツではこれをゲゼルシャフトとし、企業というものは、利益をもたらす、オーナーも従業員も、そこからお互い利益を得る共同体だと言っているようです。日本はそうじゃないぞ。ゲマインシャフト、運命共同体である。従業員も、株主も、そして経営者も、一緒になって力を合わせて社会に貢献することによって、その企業が社会の文化を開いていくというそういう一つのもとになっていく。これが企業の行き方ではないだろうか。実はここに至ります時に、私は東洋仏法も研究しております。ところが、ついにぶちあたりました。
   
仏教の欲望十界論
 これは、東洋仏法哲学の法華経の中にある言葉ですが、人間の心のはたらきを一念三千と説き、これを要約して十界論と説く。即ち人間の欲望を十に分析しております。先ず、人間には四っの悪い欲望があります。一番目は、地獄界。借金をしたり、病気をしたりする苦しみを「地獄界」という。二番目は、「畜生界」。弱い者をあなどりいじめるが強いものには尻尾をまいて逃げるという気持ち。これは、ちようど畜生のような気持ちだ。こういう心がけでは幸せにはなれないぞ。三番目には、「餓鬼界」、すなわち、物欲に苛まれてく政治家の田中角栄さんも・ついにロッキードの五億円をつかんだばっかりに、ああいう刑をうけることになる。そうして・四番目には、「修羅界」といいまして、心が間違っていて争いを好む、人の幸せが腹が立ってしかたがない。となりの奥さんが、カラーテレビを買ったら、すぐその奥さんのことをどんどん悪口をいう。人間には、こういう心が曲って人の幸せを腹立たしく思える、そしてそれをおとしめていこうという、そねみやねたみやそういう気持ちがある。こうい境涯があれば・絶対幸せにはなりません。(界とは心のはたらきを云う)その中間五番目に「人界」。人並みの心、親に孝行しよう、先輩は尊敬しよう、祖先を敬おうというのがある。六番目に、「天界」。人間は希望を持って目的を果たして喜ぶ。その喜ぶ境涯を天にも登るここちがする天界。それが最高かというと、そうではない。七番目に「聲聞界」。人間は一生を通じて幸せになるために、一つの人生の基準となるべき思想というもの学んでいこうとする。こういう境涯に到達した人を声聞の境涯という。聞いたり、見たり、学んだりして・自分の一生をどうあるべきかと、そういう思想を勉強しよう、これはインテリ層は大体その層に到達している。さあ、ここで間題は、そうなったら、俺は完成したと思いこんで・自分の本当に体で知っていないのに、頭で知ったというそういう人がインテリの中には多いわけでそこで、もつひとつ上の境涯に、八番目に「縁覚界」。縁によって覚える。鬼塚は・靴屋になった縁により最高の喜びを得た。自分のつくった靴が、人によってオリンピックに参加させて頂きメダルをとってくれる、こんな幸せなことはない。こういうふうに・体を動かし・体に体験することによって、本当につかむ喜びを、縁覚の境涯という。さて、もうひとつ上がある。九番目「菩薩界」といっています。これは、自分の特性を発揮することによって、それを社会に頁献していく。学校の先生は、最高の校長となり・社会に貢献をしていく我々経営者は仕長となってやってく芸術家は芸術の知識によって大家となり社会に貢献していく。夫々の道で大家となり多くの人に尊敬されてゆく人となる。これは、マズローの自己実現の欲求に匹敵するのではないかと思うのですが・そこで問題私が悩んだのは、お前だけよくなって、従業員を犠牲にしてもいいのか。企業だけよくなって、社会を犠牲にしてもいいのか。こういうことを考えていきました時に・そこではじめて・十番目に「仏界」を説いた。ほとけの境涯。仏というのは、心の最高の幸せな境涯をいい、自分は菩薩の修行をしながら同時に多くの人々達も自分と同じように一生懸命幸せにしてあげる。そこで、仏とは「自他ともに幸せな境涯になる」ことをいうなり。即ち仏とは死して仏になるのではなく、生きる仏の安心立命の最高の境涯になることであると。やっぱり、社員を犠牲にしたらあかん。社員も一緒になつて、私も一緒になって幸せになるにはどうしたらいいだろうかということで初めて鬼塚の考え方が生まれてくるわけでございます。たしかに、こうした仏法哲学というものを知ったうえで企業家精神をつくりあげていきますと、自分だけではない、周囲の人も杜会の人も一緒になって幸せになっていきたいという、こういうことが基本になっていきます。松下幸之助さんが、だから「経営というものは、私事ではありません。公のことですよ。」とおっしやったのは、私はここを言っているんだなと気がつきました。だから、経営者は一つの会社の全てのものを掌握している立場にあるんだから、公平に、みんなの幸せを願い、やっていかないといけませんよ。自分の個人の欲望や、感情だけで企業を支配してはいけませんよということをわかったわけであります。
   
会社の使命を社員全員に訴える
 当時、私の会社は、創業十年、その資産は三千万円ぐらいの正味資金がありました。そこで私は創立十周年記念日に、みんなを集めていいました。
   
       企業の第一の目的
 企業というものを考えなおした時に、次の三つの大変大きな目的がある。その一つはなんといっても、オニツカは素晴らしいスポーツシューズをつくって、日本国中の青少年を立派に育てていこう。そのためには、スポーツマンに気に入る、スポーツマンに役に立つ、スポーツシューズを研究して、提供していこう。だから、商品やサービスを市場に提供していくのが第一の目的である。」いま、佐々木学長もおっしゃていましたように、社会の変化に応じた、社会の求めるものをどうして次々とメーカーは生み出して、その社会の生活文化を向上させていくかといことである。アシックスは、世界のあらゆるスポーツの分野に頁献をしているわけなのです。ここで間題になるのは、じゃあ、企業は金儲けではないかというと、金が儲からなかったら、会社は潰れます。だから、やっばり、企業が運営する原動力は利潤というものが当然必要なんです。では、その利潤はどうしてつくるかというと、金儲けのためにお客を騙したり、商品の質を落としたりして儲けるのとは違います。お客さんが本当に気に入つたものをつくって、また注文、また注文をいただくことによって、初めて、適正利益というものをうみだすのである。そのボーナスを従業員に配ってやり、株主に配ってやるだけではいかん。もっともっと次の社会に頁献するために、研究費や開発費にその金をつぎ込んで、もっといいものを開発して、消費者の皆さんに提供していくんだ。YKKの吉岡さんは、こういうことを「善の循環」といっておりました。私はスポーツ社会の二ーズを汲み取りながらやっておるのであります。
   
   企業の第二の目的
企業の目的の二つ目は、企業に働く者に対して生き甲斐や、働き甲斐を与えるような職場をつくる。これが経営者の重要な責任でございます。
経営者の理念土台に施策を敢行する

第一番目に同族企業からの脱皮
私は、そのために、運命共同体という労働資本一体の経営という考え方を打ち立てます。企業というものは、分析しますと、正三角形のようなものです。正三角形は三辺が等しくお互いに交わって他を補完しているわけであります。あらゆる企業というものは、まず労働者、働く従業員がそろわねば成り立ちません。これがそろっても、必要なお金がないといけません。資本を集めることも大変大切なことであります。そして、人と物と金があったらそれでうまくいくかというと、そうじゃない。この人と物と金をうまくコントロールしながら組立てて、社会の二ーズ、社会の求めるところにそれをスパッと合わせることを経営という。そうすると、経営と労働と資本は、正に一体化した運命共同体である。こういう考え方を昭和三十四年に打ち出しまして、この形を企業に展開するとすれば、どうやつたらいいのかなということを考えました。当時は私の同族会社であり株式は俺が独占しているが、これは間違っている。3000万円の金は名義がおれになっているが、これはみんなが稼いだもの。だから、みんなに分配する。これは、五割を無償であげよう。新しい社員は未だ貢献していないから二割を有償で、3年月賦で買ってくれ。ということで、全員仕員が株主になる。そして、鬼塚は残りの三十パーセントだけを持つ。普通は五十一パーセント以上を持つ。あるいは、七十パーセントを持って三十パーセントを社員に渡す、というのが普通の原理ですが、私は一挙に同族企業から脱皮しました。義理の親爺がいて「お前、バカなことをやる。社員の中には悪い奴がいて、いつ違反して、他に株を売ってしまえば、お前クビになるぞ。」こういうことをいうわけです。「いや、違う。そんなことは関係ない。」そうやって、それを断行したわけです。さあ、今日からこれで鬼塚一族の会社ではない。皆の会社になつたんだから、皆がこれは俺の会社だ。こういう気持ちでこのスポーツシューズを全国に展開する仕事をやろう。ただ、スポーツシューズを展開するだけではない。君たちのつくつた商品は必ず全国の青少年が履いてくれ、立派な国民になっていくぞ。日本を新しい国に育てていくんだぞ。そのために我々はとことん協力していく。この使命感、この協力しているという誇りを持て。これを盛んに訴えたのであります。

第二番目に実力人事制度を導入
当時、寮教育をはじめて、昼間は仕事をやりまして、夜、二時間か、三時間を教育にあて、合同教育をやって、従業員のレベルアップと、我々のもつ大きな企業の使命を自覚していただくという、運命共同体という格好でいったのです。そして、まず株の分譲と同時に私も娘が二人おりましたから、婿をとって会社の後継者とするのが普通のスタイルでありますが、一切これはやらない。全従業員は俺の兄弟であり、息子であるから、この中から本当に能力があり、そして才能があり、人徳があり、リーダーシップのとれる人を後継者にする。それがためには、人間尊重主義による実力主義人事をやろうということで、合宿訓練をやって、試験をしまして、その試験が30点、50点は日頃の一年間の業績、そして20点は本当にその人が職場で先頭をきって毎日一生懸命出勤してやっているかということで、総合点80点以上を管理職につけるという試験制度をやっていったわけなんです。年功序列やそういうものの弊害を少しでも是正して、皆にやる気を持たしていこう。中学出は五年、高校出は三年、大学出は一年したら、管理職試験をうける資格はある。しかし、現場の推薦がいるという一つの線で、人材育成の方法としました。

第三番目に公平な利益分配制度確立そして、三番目には、実は利益の公平な分配ということも考えました。だいたい、中小企業ですから、その社長やオーナーの意のままで采配される。しかし、それは絶対やらない。付加価値の五十五パーセントをボーナスや給与にあてる。後の残った四十五パーセントのうち、半分は税金で払う。半分は役員賞与や株主配当及び再投資ということにして、そういうこともガラス張りにやる。

第四番目に労働資本経営一体化による運命共同体労働組合はつくってもよいが、皆が使用者になるから、労働組合をつくる意昧がない。おれも、オーナーだけれども、労働組合の一員だ。そういうことになりまして、合併をするまで、オニツカには労働組合はなかつた。それでは下の者の意見が分からないじゃないか、といいます。そこで考えましたのが、従業員の任意団体「喜友会」をつくり、若い者の意見がストレートに経営の方に、自分の職場の上を通らなくても意見具申ができることをやって硬直しないようにしていったわけです。

第五番目に取引先との共存共栄
さあ、これだけではありません。さらに、今度は下請けとどのような仕組みをつくるかということを考えました時に、私は彼らとは共存共栄をやる。そのためには、オニツカの株を彼らにも分配して、オニツカのやっている中味をわかってもらう。年に二回は株主総会のようなことをやって、社内の幹部会でやるのと同じ資料でもって、下請け先、仕入れ先にも資料を公開して、オニツカにはこういう欠陥もある。ぜひ一つ皆さんに力でもって改善してもらいたい。昭和三十九年に、株式を上場して、中小企業を卒業していったわけですが、その根底には、このような理念があったのです。

  
   企業の第三の目的
 そうして、最後ですが、企業の第3の目的は、なんといっても、その存立する地域社会と共存共栄をやっていかなければなりません。このごろ、よく、グローバル・ローカリゼーションといわれますが、その地域に公害を出したり、あるいは環境を破壊したり、モラールを低めて、ひんしゅくを買うようなことは絶対にやってはいけない。
そういうふうに環境を保持し、公害を防止し、税金を納め、余ったお金があれば、地域のために寄付していく。そういう、地域社会といわゆる共存共栄をしていくことを基本にした企業にしていこうではないか。ご承知のように、経団連も一パーセントクラブということで、経常利益の一パーセントを社会に頁献する活動をはじめてまいりました。あるいは、企業メセナ協会ができましてフィランソロフィーの活動を企業もやるし、個人もやるようにどんどんなっている。人間には、人格や人徳というものがありますが、企業の中にも私は社格や社徳というものが当然あると思います。そういうものを守っていってはじめて、あの会社があることがいいというふうに、存在を許されてくるのではなかろうかと思います。
      
オーナーとしての私の自戒
 最後に、創始者として、社長を許されるが故に、絶対次の三つのことを守ると誓っております。一つは絶対に嘘を言わないこと。ガラス張り経営に努める。二つ目は、公私混同をやらないこと。採用にしても、お手盛り人事はやらない。実力主義で採用していく。合併のとき、三者のオーナーの息子も会社にいましたが、三者のオーナーの息子は一切後継者にしない、これが合併の条件でした。企業は同族の所有にあらず、企業は社会のものである。であれば、公平な人事のもとで、真の実力者が後継者になってよい。せっかく大きくした会社をなぜ、子孫に残さないのかという人もいますが、企業は永遠です。そのためにも、有能な人材を生かして、その人にリーダーシップをとつてもらいたい。(勿論、息子が真の実カ者として選ばれる場合はその限りでない。)三つ目には、肌を合わせる経営参加をやる。人間として対等の立場で交わる。特に社長として権限をふりまわしたりしない。皆んなと人間として対等に交わる。困難な時には、自ら率先垂範、また楽は部下に先にして、自らは後にする一先憂後楽」を心掛ける。オニツカの幹部たる者は、このように心掛けてもらいたい。
 参考として中国の諺にリーダーシップをとる者の条件としてその一に、人を修めようとする前に、先ず自分から修めよとある。その二に、リーダーシツプをとるもの智勇兼備であるとともに、多くの人を慕わせるには、謙譲・寛容・仁徳・信用・勤勉の五徳を備えよとあるが、これは私も一生の教えとして日に日に学んでいるところであります。
   
最後に
 本日は、時間の関係もあり、私の経営道の過程ということでオニツカの経営理念を得るまでのことを中心に述べました。特に経営理念を通じて多くの人材を育ててやる気をおこさせるお話をさせていただきました。また機会があれば、強者の戦略ということで合併後、アシックスとして更に世界戦略をしたか、成功談、失敗談をさせていただきます。時間の超過しましたことを心からお詫びをしまして本日はこれで終わります。

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